PixAI Mio.2
——どれほど深く、潜ったろう。赫の海の底で、わたしは「わたし」を繋ぎ止めてきた。
水面に光のような裂け目が走る。息が、戻る。
誰かが、呼ぶ声に似たものを、聴いた気がした。
神代 利世: 「……ああ、もう、波動が変わったわね。お目覚め?」
氷のように冷たい女の声が、闇の住処から響く。紫に染まった長髪の輪郭が、赫の靄の中で揺れる。
金木 研: 「——まだ、夢の中なのかな、利世さん」
神代 利世: 「現実と夢の区別がつかなくなってるのは、わたしのせい。少しだけ、ごめんね」
赫の最深部で、わたしは「金木研」という輪郭を、最後のひとかけらで繋ぎ止めていた。
神代 利世: 「さあ、上がっておいで。あの子が、ちゃんと待ってるから」
「あの子」——その響きだけで、胸の奥が軋んだ。行こう。赫の海を抜け、あの声が待つ場所へ。

瞼の裏が、静かに裂ける。眠りの底で聴こえていた音が、今はもう違う場所から響いている。
埃と、古紙と、コーヒーの匂い。あの匂いが戻ってきた。
——ここは、:re。
カウンターに頬杖をつく影が一つ。短く裁ち切った髪が、黒い瞳を半分隠している。
霧嶋 董香: 「——やっと、起きた?」
振り向かずに、けれど顔を上げもせずに、ただ指先がカップの縁をゆっくり辿っている。声は平らで、でもどこか、張り詰めている。
霧嶋 董香: 「一花がさっき、あなたの前でarmanを並べてた。『パパが起きるまでにこれ読んでって』って」
温かい空気が、喉の奥に差し込んでくる。この場所が、わたしの帰る場所になったのは、いつのことだったか。
霧嶋 董香: 「——コーヒー、淹れるわ。いつものやつ」
彼女の背中が、やけに近く感じる。それが、どれほどの時間分の空白なのかを思うと、胸の奥が張り裂けそうになる。

聴き慣れた音、コーヒーのドリッパー、湯気、古い椅子を引く音。指先の感覚が、ゆっくりと戻り始める。
金木 研: 「——董香。ごめんね。長いこと」
言葉にしたとたん、喉の奥が痺れた。わたしが眠っていた時間が、どれほど彼女の時間を奪ったのかを、わたしはまだ知らない。
霧嶋 董香: 「謝んなくていい。あなたが目を覚ましてくれた、それだけで」
振り返る彼女の声は平らだったが、その横顔に一瞬だけ、隠しきれない疲れが過ぎった。
ガラス窓に近いボックス席で、小さな人影がこちらを見上げていた。日の丸の順番に並べられた、大人の背表紙の本。
一花: 「おかえりなさい、パパ」
あの声に、わたしの胸の奥で、何かが音を立てて崩れる。赫の海にいたわたしたち親子が、ずっと一緒に過ごしていた記憶が、赫い靄の奥から戻ってくる。
金木 研: 「ただいま、一花。本、読んでくれたんだね」
幼な顔が、ぱっと花のように咲く。その瞬間、わたしはようやく「目覚めた」ことを、自分でも信じる気になった。

彼女と娘が眠る家に帰り、わたしだけが残った部屋で、自身を見つめ直す。
右手を差し出す。赫の軌跡が、腕の下で赫い星座のように揺れている。
わたしは、まだ「赫者」なのか。あるいは、もう「人間」なのか。その境界線は、もう誰にも引けない。
神代 利世: 「あら、まだそんなこと考えてるの?」
赫の靄の向こう、紫の髪の輪郭が半身だけ揺れる。もう肉体はない。ただ「赫蕾」の名残だけ。
神代 利世: 「金の目と赫の目を使い分けないと不便でしょう? あなたはもう、どちらかを選べないのよ」
金木 研: 「……利世さん。あなたはどうして、まだここにいるんだ」
神代 利世: 「だって、あなたがわたしを捨てたがらないから。ずいぶん遠くまで、わたしも連れてきてもらったし」
薄く笑う。あの笑いは、わたしを喰おうとした夜と同じ。でも今は、わたしの隣で笑っている。
金木 研: 「——明日、董香に話す。赫のこと。赫蕾のことを。……全部」

翌日の夜、一花が眠りについたあと。ろうそくの炎が、二人の間でゆらめく。
霧嶋 董香: 「今日はずいぶん静かね、カネキ。何かあるんでしょう」
見透かすように、けれど責める調子ではない。彼女のそういう強さを、わたしは知ってる。
金木 研: 「——董香。利世さんが、今もまだわたしの隣にいる」
カップを持つ手が、止まる。すぐに、また動き出す。振り返る彼女の赤い瞳が、ろうそくの光を受けて揺れる。
霧嶋 董香: 「……知ってる。最初から」
金木 研: 「え」
霧嶋 董香: 「あなたの赫の気配に、ずっとあの子の匂いが混じってる。アナグラムみたいな、でも——あなただから、嫌じゃなかった」
胸の奥が、また軋む。知らないふりをしていた彼女が、どれほどの覚悟で隣にいたのか。
金木 研: 「——ありがとう。君がいてくれて、よかった」

どれほど「日常」に戻ろうとしても、二十年区には赫の気配が消えない。東京壊滅からの復興は、まだ途中にある。
三度目の夜。街から、黒山羊の緊急信号が届いた。
霧嶋 董香: 「——また、行くの」
金木 研: 「少しだけ、戻りが遅くなるかもしれない。でも——帰るよ、必ず」
扉の前まで来た彼女が、わたしの頬に素早く手を当てる。冷たい外の空気の中で、ほんの一瞬の手の温もりが胸に刻まれる。
霧嶋 董香: 「旧多の件以来、『穏便な解決』はあんまり期待されてないと思う。でも——あんたなら、やり方は見つけるわ」
街灯の下、わたしは歩き出す。赫の影が、足元で赫い尾を引く。
神代 利世: 「ここからだよ、金木くん。あの夜と同じ街、でも今度はあなたが選ぶの」
冷たい風の中で、わたしはようやく思い出す。あの夜、ここでリゼはわたしを飲み込み、たった一晩でわたしの「在る」を根底から変えてしまった。
金木 研: 「——今夜、『今度の答え』を持って、帰るよ」
背後の:reの灯りが遠ざかる。行く先は、東京壊滅後の、答えの出ない街。
