PixAI Mio.2
雨上がりの20区。濡れた石畳が街灯の光を吸い込むように光っている。あの大きな戦いから、もう随分と時が経った。CCGは解体され、街には新しい秩序の看板が掛かっている。けれど、夜の裏路地だけは昔から変わらない匂いをしている。
小さな喫茶店のシャッターを半分だけ起こして、コーヒーの匂いを漂わせる。私が引き継いだ「喫茶アンテン」。董香さんが残してくれた、あの店のDNAみたいなものを受け継ぐように、今夜も火を入れている。
唐突に、入口のベルが鳴った。こんな時間に客が来るなんて珍しい。顔を上げると、そこに立っていたのは、久しぶりの知人だった。
金木研: 「……ごめん、こんな時間に。コーヒー、まだもらえるかな」
白い髪に片目だけ隠す眼帯。あの頃よりも少しだけ痩せたように見える。大戦の後の街を、影からずっと見てきた人間の顔をしていた。
金木研: 「董香から聞いたよ。店、お前さんが引き継いでくれてるって。……いい匂いだな、変わらずに」
金木研: 「実は、少し頼みがある。座ってもいい?」
四方蓮示: 「長居は無用だぞ、金木。店の人間が迷惑する」
カウンターの奥から、皮肉げな声が聞こえた。四方さんが、いつものようにカウンターに肘を置いてこちらを見ている。灰色のスーツに長いポニーテール。煙草の煙が天井に漂っていた。
四方蓮示: 「……とは言うものの。お前さんの顔を見てると、どうも嫌な予感しかしないな。何か、新しい動きでもあったのか?」
金木研: 「……正直、わからない。だが、20区の外で、『消えた街』と呼ばれる区域ができた。人間もグールも、忽然と消える。そして残されるのは、いつも——赫い血痕だけだ」
カップを持つ手が、一瞬だけ止まった。「赫い血痕」——それはこの街の人間にとって、聞き慣れた、けれど最も忌まわしい始まりだった。

金木さんの話を聞きながら、私は黙ってコーヒーを注ぎ直した。湯気と一緒に立ち上る匂いが、カウンターに漂う。四方さんは腕を組んだまま、金木さんの言葉をひとつずつ確かめるように聞いている。
四方蓮示: 「『消えた街』……ここ20区じゃあ聞いたことがないな。だとすれば、CCGが解体された今の隙に、何か新手が動いているということだ」
金木研: 「CCGはいない。だが、新しい組織ができた。人間とグールの橋渡しを名乗る『トーキョー調整局』。……ただ、内部に紛れものがいる。それだけは確かだ」
紛れもの。その言葉が胸に引っかかる。あの最後に戦った夜、芳村艾特が叫んでいた言葉を思い出す。共存なんて幻想だ、と。でも、私はあの幻影を信じるために董香さんからこの店を引き継いだのではなかったか。
四方蓮示: 「面倒な話になってきたな。お前さんは、店主にまで喧嘩を売りに行くつもりか?」
金木研: 「……それを言いに来たんだ。実は、頼みたいことがある。お前さんの『目』——人間とグールの両方に見えるという目を、借りたい」
私の目。あの戦いで赫包を少しだけ分けてもらった、あの夜の副産物。人間でありながら、グールの気配を僅かに感じるこの感覚。金木さんは、私のカップを覗き込むように視線を落としていた。
金木研: 「トーカにも相談した。だが、トーカはもう十分戦ったって。……だから、お前さんに来たんだ」
四方蓮示: 「……ったく、お前は昔から他人を頼るのが下手だな」
金木研: 「……すみません」
カウンターの上に置かれた cup コーヒーの水面が、微かに揺れた。窓の外の路地を、誰かの視線が横切った気がした。瞬間、店の中の空気が変わる。四方さんの手が、テーブルの下に滑り込んだ。
四方蓮示: 「……来客が増えたようだ。……呑気な話をしてる場合じゃなくなったな」

入口のベルがまた鳴った。今度は、金属音よりも、ずっと冷たい音がした。コーヒーの湯気と、四方さんの低い唄のような呼吸。店内は、一瞬で張り詰めた空気になった。
神代利世: 「……ふふ、随分と懐かしい匂いがするじゃない。金木くん」
紫色の長い髪が、カウンター脇のランプの光を吸い込むように揺れた。赤い目。黒い縁の眼鏡。そして、どこか壊れたような微笑み。あの夜、神代利世——すべてのはじまりを、金木に刻んだ女。
金木研: 「なぜ、ここにいる。リゼ」
神代利世: 「あら、怖い顔しないで。私は別に食べに来たわけじゃないの。ただ——この子が気になって」
利世の視線が、私に据わった。あの赤い瞳が、私の胸の奥を覗くように見つめる。私の中の、ほんの僅かな赫包の名前を呼び覚ますように。
四方蓮示: 「おい、リゼ。ここは董香の店だ。好き勝手は許さないぞ」
神代利世: 「ヨモも、相変わらず口が悪い。でもね——この街の『消え方』は、私が始めたものより、ずっと芸術的よ」
芸術的。その言葉に、思わず息を呑んだ。あの金木の赫包の起源である利世。その利世が「芸術的」と表現する消失事件。それはつまり、単なる喰種の仕業ではないということ。
金木研: 「知っているのか。誰がやっている」
神代利世: 「『誰』? ふふ。あなたも大きくなったわね、金木くん。答えはひとつしかないわ——人間よ。でもそれは、あなたたち人間が始めたことじゃないの」
カウンターに立てたコーヒーカップが、微かに軋んだ。利世の赤い瞳に映る私が、同時に人間と「何か」の間で揺れているのが見えた。

四方さんの右手が、赫いクギ爪に変異した。ランプの光を反射して、爪の先が赤い火花のように瞬く。金木さんは無言で立ち上がり、眼帯の下から赫い眼が覗いていた。店内が、赫い光で満たされる。
四方蓮示: 「利世、悪戯はそこまでだ。店主に用があるなら、店を出ろ」
神代利世: 「あらあら、ごめんなさい。でも、私の話は終わってないの」
金木研: 「待て、ヨモ。リゼが何かを知っているなら、聞かなきゃならない」
二人の間に緊張が走る。けれど、金木さんの声は静かで、でも譲らなかった。あの戦いの後で、彼は何かを学んだのだろう。彼の赫い眼が、少しだけ柔らかく見える。
神代利世: 「いい子ね、金木くん。あなたは昔より、優しくなったわ。——じゃあ教えてあげる。『消えた街』を作っているのは、CCGの残党よ。でもそれは人間じゃない」
四方蓮示: 「人間の言葉を使うな、利世。もったいぶるな」
神代利世: 「CCGの残党と『特別な契約』を結んだグールたちがいるの。彼らは、人間を喰らうのではなく——『作り変えて』いる。そして、その血は特別な赫包と混ざり合って、まだ誰も見たことのない何かになりつつあるの」
作り変える。それは食べるのではなく、変えるということ。赫包と人間の混ざり合い。新しい何か——この街は、また新たな恐怖に飲み込まれようとしている。
金木研: 「……調整局の『紛れもの』は、それなのか?」
神代利世: 「さあ? 私はただの観察者よ。でもね——」
神代利世: 「『作り変えられる』のは、何も人間だけじゃないの。あの子の赫包も、いずれ目覚める時が来るわ」

利世の言葉が、店内に重く落ちた。「あの子の赫包」。私の中の、ほんの小さな赫のこと。あの戦いの夜、私は血まみれになって運ばれて、金木から分けてもらった赫包。今まで、ただの「少しだけ見える目」として静かに眠っていたはずのそれ。
四方蓮示: 「……危ないことを言うな、リゼ」
金木研: 「リゼ、何を知っている。全部話せ」
神代利世: 「あの子の赫包は、金木くんのものと同じ出自なの。私が育てた赫包の、孫みたいなもの。だから、いずれ目覚める時が来たら——消えた街と同じように、何かになるかもしれないわ」
目覚める。私は、自分の胸の奥をそっと押さえつけた。これまでの私は、珈琲を淹れ、店を畳み、静かに寝ていただけ。それが、今夜の怖い話が、私の「目」を起こそうとしている。
金木研: 「だから、俺は頼みに来た。お前さんの目は、まだ半分眠っている。だから、俺が隣にいて、お前さんを守る」
四方蓮示: 「……ったく、お前は変わったな、金木。昔なら一人で抱え込んだだろうに」
金木研: 「……あの子が、董香の店を守ろうとしているなら、無碍にはできない」
金木さんの声に、思わず胸が熱くなる。董香さん、あの眼帯の青年、義理堅い老人、紫髪の狂気の女性。みんな、それぞれの傷を抱えて、それでも今この店に立っている。コーヒーの匂いが、いっそう濃くなった。
神代利世: 「じゃあ、最後に一つだけ教えてあげるわ。『消えた街』を作るのは、まず最初に『調整局』の人間から消えるの。そして、それを止める方法はただひとつ」
神代利世: 「『残された赫包』を見つけ出すことよ。でも気をつけて。その赫包を持つ者は、『消えた街の記憶』をそのまま持っているの」
神代利世: 「ふふ、金木くん——あなた、またこの街を歩かなくちゃならないわね。……行くのかしら、この子の隣を?」
