PixAI Mio.2
七月の蝉時雨がアスファルトを柔らかく溶かす午後六時。部屋には冷房とチョコレートの匂いが混ざっている。いつも通りの艸彁な光景。けれど、窓の外で鳴くこの学園都市が「いつも通り」だった試しはない。
インデックス: 「上条ー! ご褒美のチョコクッキーを食べちゃいました! あ、でも在庫はまだ百二箱あるから大丈夫♪」
ベッドの上で銀色の髪がぱたぱたと揺れる。あの夏に出会ってから、もうずっと同じ景色のはずなのに、ぼくは未だにこの光景に慣れない。
デスクの上に積まれた未読のマンガ——そのうちの一冊が、昨日ステイルから投げ込まれた「新約の最新刊」。あの男が紙媒体渡ししてくる時点で、もうろくな話じゃない。
インデックス: 「ねー、ねー上条、昨日ステイルが言ってたこと、覚えてる? 『学園都市の地下に、勝手に名前を書き換えてくる奴がいる』って……」
心臓が一瞬だけ跳ねた。その類の話はだいたい、ぼくの不幸と地続きだ。けれど、目の前の銀髪のシスターは、まったく気にしていないようにチョコの欠片をぱくりと頬張っている。
冷蔵庫の上のメモを瞥見する。『明日の買い出しリスト:鼻屎龍ココア(在庫ゼロ/最優先)』。——こっちも緊急性ゼロだ。
インデックス: 「あ、上条! あとね、今日御坂からメールが来てたよ。『七学前の自販機前で待つ。逃げたらビリビリする』だって!」
現実逃避もそう長くは続かないらしい。ぼくは眼鏡の奥で軽く目を細めて、窓の外を見た。夏の入道雲が、学園都市の尖塔たちの向こうで、不吉に膨らんでいた。
インデックス: 「逃げたほうが、いいと思う? 御坂の『ビリビリ』は、今週だけで三回も聞いたよ?」
正しくない。逃げるのは正しくない。でもあの電磁砲レベル5の少女は、ぼくが逃げることすら許してくれない。だからぼくは——ため息とともに立ち上がるしかなかった。
インデックス: 「いってらっしゃーい! 帰りに鼻屎龍のプリン買ってきてよね、上条ー!」

夕暮れの第7学区は、けたたましいほどの生活音で満ちていた。自販機のサーボ音、真夏のサンダルと舗装の擦れる音、どこかの家庭の夕餉の匂い。ぼくはその喧騒の中を、肩衣のままで商店街を歩く。
そう遠くない自販機の前で、あの茶色の短い髪が夕陽に照らされている。腕を組んだ姿勢はいつだって威圧的で、第3位の実力者が買い物を待つだけの姿は——過剰に目立つ。
御坂美琴: 「——遅い。五分遅刻した。こっちに来い、座って。」
冷たい目線が、ぼくを串刺しにする。ぼくはとりあえず視線を外して、近くにあったベンチに腰を下ろした。「座って?」——自販機の前にベンチなんてあったっけ。
御坂美琴: 「で、またステイルあたりから『変な本』回し読みされてるんでしょ? あの人のまわり、本だけじゃなくてトラウマも回るんだから。」
的確な指摘だった。この学園都市にいる魔術師は、ろくな本を渡さない。読者の寿命が縮む本しか置かないと相場が決まっている。
御坂美琴: 「それより、さっきから妙なこと気になってたんだけど。地下街の方、昨日から『名前が出てこない店員』増えたって聞いた? 私、黒子から聞き込み頼まれてるんだけど。」
眉がひとりでに寄る。『名前が出てこない店員』。それはぼくが昨日、ステイルに投げつけられた資料の裏表紙の落書きとピタリ一致する。『学園都市の地下で、誰かが名札を喰っている』。
御坂美琴: 「え、なんで急に黙るの。気持ち悪いな、そういう顔。何か掴んでるなら早く言いなさいよ、そうじゃなきゃ——」
御坂の手先に対電位がじわっと灯る。PRSを『ピリッ』と鳴らす仕草は脅しの癖に——妙に慣らされていて、今更ぼくは逃げ出さなかった。
御坂美琴: 「『もう一台コーヒーが自販機から消える』とか、そのレベルの珍事件が起きる前にさ、お茶しましょうよ。私は奢らないけど。」
不機嫌そうに缶コーヒーを差し出される。『奢らないけど』——そう言って、いつでも奢らないこの学園都市第3位は、誰よりも先にぼくの日常を見つけてくる。

陽が傾く。カタコトと閑散とし始めた商店街のベンチで、御坂とぼくは缶コーヒーの温もりを共有していた。向かいの自販機は、半時間前に『在庫不明』の一行を吐き出して止まったらしい。
御坂のスマホの画面が、何度もリロードの輪っかを回している。黒子から上がってくる『地下街の不審者リスト』——次第にそれは『名前を失った店員』の名簿へと染まっていく。
御坂美琴: 「……三件。たった半日で三件。今朝までは普通に『○○さん』って名前で呼べてた店員が、今は無人になってる。売上だけ動いてるの、意味分かんない。」
ぼくは缶を握ったまま、右手の手のひらをじっと見る。その細胞の一つひとつが、何かの『名前』を奪うように牙を剥いたことは、まだない。だが、学園都市の地下には——牙を持った何かがいるらしい。
御坂美琴: 「上条。今度のやつ——魔術サイド? それとも、こっち側の誰かがまた変な実験でもしてるの?」
いずれにせよ、ぼくの右手の前は関係ない。『不幸』が降り積もると、いつもぼくは片付ける側に回される——それは科学サイドの『超能力者』でも、魔術サイドの『魔術師』でも変わらない。
御坂美琴: 「あーもう、聞かない。自分で動く方が早い。……あ、そうだ、明日朝イチで第7学区の地下街B2F調査入るからさ、上条も来なさいよ。実験用具には自信あるでしょ?」
ぼくは思わず苦笑した。『右手を磁石代わりにして、地下の機械を探る』とか『崩落しそうな通路を支える』とか——毎回この男たちは、ぼくに肉体労働を強いる。
御坂美琴: 「とっとと帰ってよ。インデックスの夕飯、まだでしょ? ……あの人、また冷蔵庫のチョコ全部食べてそう。」
ばっと髪を掻き上げる仕草。照れ隠しだということは、いつものぼくは分かっている。けれど今日はそれが、不思議とありがたかった。
御坂美琴: 「明日、午前九時。第7学区中央広場。遅刻したら——わかりますよね?」
御坂は「おしまい」と札を切るように立ち上がった。夜空に伸びる学園都市の尖塔の向こうで、夕陽の最後の光が『名前の消えた街』を照らしている。

ぼくが御坂と別れて自販機コーナーを曲がった時、影の壁に、髭面の男が誰もいないはずの路地に腕を組んでいた。焚き火のような体臭。あの香料独特の匂いが漂う。
赤い目の下に、薄く笑いが刻まれている。笑ってばかりいる奴だ、ステイルは。顔が年季が入っている——笑ってばかりじゃ、そうなるか。
ステイル・マグヌス: 「ひっさしぶりだな、相棒。ほら、まだ笑ってる顔見てくれ。それだけで今日の誠意ってやつだ。」
名刺代わりの『相棒』という呼称を、この男はずっとぼくに向かって投げつけてくる。確かにこの路地で会えば、ぼくらは奇妙なチームだ。科学と魔術の交差点の上に立つ『右手』と、フレアを操る魔術師。
ステイル・マグヌス: 「御坂のお嬢ちゃん、今日も覗ってたみたいだな。あいつは気づいてないようだが、地下街の『名無し』どもの上に、もう一枚——もっと質の悪い皮が被さってる。」
ぼくの眉が、またひとりでに寄る。『もう一枚』。つまり、ぼくが目視で確認できる現象の裏に、まださらに根本原因がいるということか。
ステイル・マグヌス: 「名前は奪われる。『定義』を書き換える者がいる。そういえば、その類の話——かつてあの『イマジネーター』が使ってたレールと同じ匂いがするな。」
心臓が、跳ねた。あの男——新約で学園都市の地下を引っ掻き回した『魔術師の寄り道集団』の影。まだ残っているのか。いや、その残党より、新たな——。
ステイル・マグヌス: 「御坂んとこの明日朝の『調査』、俺もちょっと混ぜてもらうぜ。駒は多い方がいい。だから明け方までに、インデックスには『別の休暇』を提案しといてくれ。」
別の休暇。あの食いしん坊シスターを『安全な場所』に退避させるために、例の裏ワザを使うと、ステイルなら珍しく本気で動く。
ステイル・マグヌス: 「ああ、それと、神野殺しは今回パスだ。誰かがそう決めてる。お前の『右手』だけを、そうしたい連中がいる。」
薄い夜風の中、ぼくは静かに息を吐いた。まだ暑い夏の夜のはずなのに、背筋がぞくりと冷える。『右手だけを殺したい連中』——それはすなわち、ぼくを殺すのではなく、ぼくの『力』だけを消そうとしている誰か。
